プロフィール
プロフィールをがっつり書いた。ざっと8000文字以上ある。気になる人は読んでくれ。
幼少期
東京都江戸川区に生まれる。父はサラリーマン、母は専業主婦と言う一般的な家庭に育つ。
5才の時、家族旅行で訪れた先で
「馬に乗りたい」
と突然言いだし、その頃から母は「この子はちょっと頭がぶっ飛んでる」と思っていたようだ。
小学生
友達3人で一緒に、駄菓子屋で万引きをする。輪に加わらなかった1人に学校の先生にチクられて、三者面談。ヤンチャで親に迷惑をかけていた少年だった。人を疑うことを知らない純粋な少年だっただけに悪い誘いにもすぐ乗っていた。
中学生
タバコを吸う。イジメに合う。
イジメに合う。友達がべつの友達の所持品を盗んでいる瞬間を目撃し、そのことを本人に告げると、次の日になって「お前チクっただろ」と言われ、盗んだ友達も盗まれた友達もグルになってイジメに合う。中学2年生の時の話だ。それでも遅刻、欠席することなく学校に通い続けたことが、困難に立ち向かう気持ちの強さを育てたのでは、ないかと今振り返れば、そう思う。辛かったけどね。それに、自分が経験しただけに弱者の気持ちを理解できるようなったと思う。
高校生
16歳で初体験。グレる。
偏差値65の進学校に進むも、社会の言いなりになるが嫌で、遊びに夢中になる。17歳の時、年齢を偽りホストクラブで働く。高校3年生になるとグレ始める。窃盗、恐喝、茶髪にピアスにタバコ。まさに不良、かと思いきや、そうでもなく、実際には、ただ不良グループに所属してる自分をカッコイイと思っていただけた。そして不良グループは自分の居場所でもあった。中学時代にイジメを経験したおかげで友達を失うことを恐れていたんだと思う。心のどこかでは、いつもそこから抜け出したくて、卒業と共に不良グループとは縁を切る。
大学生
高校時代に遊びまくってたおかげで国学院を落ち、帝京大学へ進学。当時の夢は、日本史の高校教師。そして音楽にも出会う。バンド活動に明け暮れる日々。大学3年生の時に語学留学で初めての海外へ行く。行った先のイギリスでは何もかもが日本と違う事に衝撃を受ける。教員免許取得を目指していたものの、途中でファッションに興味を持つ。進路先をファッション業界に変えたものの、うまく将来の目的が定まらず就職活動を辞める。フリーターになる事を決意する。
社会人
アルバイト先にやってきた派遣社員の人に誘われて、ブラック企業へ入社してしまう。
この頃、おれは起業して金持ちになって六本木のタワーマンションに住むことを夢見ていた。
「その夢、うちで叶えられるよ!」と甘い誘惑にまんまと引っかかってしまう。ねずみ講のような事をやる会社で、疑問に思いつつもしばらく続けてみる。
辞めようとすると恐喝、パワハラ、嘘、暴力、なんでもありのヒドイ会社で、なかなか辞められない。そして胃潰瘍になる。
辞めようか迷っていた矢先に、関連会社としてタクシー会社を立ち上げるから
「一緒にやってみない?」
と、誘われる。騙されてると知りつつ、やってみる。26歳のときだ。
給料は月収20万円。
しかし、社内で暴力事件が発生。上司がミスを犯したアルバイトを顔の形が変形するほど、ボコボコにしている現場を目撃してしまう。
おかげで目が覚め、あっさり退社。そして転職。
ちなみに、おれを勧誘してきた男は今ではIT企業で副社長をやっている。大したもんだ。
転職
同業種のタクシー会社へ転職。そこの会社も歴史が浅く、のし上がっていけるチャンスに思えたことが主な動機だ。給料は、まさかの50万円。そして、営業部の課長になる。この時、27歳。まさかの大出世。約30人を束ねるものの、個性が強い年配の部下に苦労する。
27歳にして月収50万円。役職は課長だ。そこだけ見れば「勝ち組」と世間では呼ばれている。しかし、やってる事は間違いなく、やりたい仕事ではない。お金のためだった。このままずっとお金にとりつかれていいのだろうかと大いに悩んだ。やりたいことを取るか、お金を取るか、しかしやりたいことが何なのかわかっていなかった。おれは思い切って世界一周の旅に出る。
いざ世界一周へ!
思い出深い出来事をいくつか順にピックアップしてみる。
フルムーンパーティー
タイには、パーティで有名な島がある。それがパンガン島だ。満月の日に行うフルムーンパーティを行う島だ。音楽、酒、セッ〇ス、ドラッグを求めて世界中から人がやってくる世界で最も有名な島のひとつだ。とにかく楽しかった。
カリバタ英雄墓地
日本の敗戦後も国に帰らず、インドネシアの独立のため戦い死んでいった日本兵が眠る墓地。ここはジャカルタにあるカリバタ英雄墓地。激しい戦いの中で命を落とした約1000人の日本兵が眠っている。人のために戦って死んでいく、それがどんな気持ちだったのか、尊敬の念を込めてお参りして来た。
史上初の訪問者
インドネシアのマドゥラ島にはタナマラー村という小さな村がある。外国人が訪れるような観光地でもないし、ほんとにただの村。スラバヤで知り合った現地人に気に入られて、招待され行ってみた。食事は床、トイレは外に掘った穴の中、水は井戸、というインドネシアの本当の姿を見れたのは貴重な経験だったと思う。村の歴史上、訪問した外国人はおれが初めてだと村長は語る。
超絶景!ブロモ山
長く旅をしていると観光に飽きてくる。どんなに素晴らしい教会やお城を見たって「そういえば前にもこういうの見たな」っていう過去のデータが膨大にある分、感動しないのだ。
しかし、インドネシアにあるブロモ山は違った。広大にどこまでも続く台地、そして、そこにどっしり構える火山。あんなに自然に魅せられたのは初めてだったし感動した。
しかし、その帰り道、おれは、遭難した。
山の頂上付近で。
詳しい経緯は省くが、山の頂上あたりは夜になると氷点下になる。まさか赤道直下の暖かいインドネシアへ防寒具など持っていかないだろう。もし、夜までに下山できていなかったらおれは死んでたと思う。ラッキーなことに途中で村を発見して、村人に助けてもらった。
大富豪に出会う
株、不動産、投資、起業、こういったキーワードに反応する人は、彼の名前はどこかで聞いたことがあるだろう。
大富豪アニキこと、丸尾孝俊。本も多数出版しているし、映画のモデルにもなった人物である。総資産4000億円超の日本を代表する大富豪だ。
ちょうど、その頃、インドネシアを旅していたおれは一通のメールを友達から受け取った。
「大富豪に会うけど来る?」
当初、おれは断った。なぜなら、「金持ち」イコール「悪」、「金儲け」イコール「悪」、そういう考えを当時は持っていた。
しかし、友達が再三誘ってきたので、ジャワ島にいたおれは渋々、丸尾さんの住むバリ島へ向かうことにした。おれは名前すら知らなかった。
たしかに彼はお金が好きそうだった。それも、とびっきりに、だ。だが、彼はそれ以上にインドネシアを愛していた。インドネシアのために人生を捧げようとしていた。そういったものを感じた。英語では伝説的な人のことをレジェンドと呼ぶ。必ずしもそれは持っている資産の量ではなく、人間力を指す。彼は、そのレジェンドだった。
今でも、おれは「金儲け」や「金稼ぎ」といった言葉に、やや批判的だが、丸尾さんとの出会いで、必ずしも全否定することはなくなった。彼との出会いは大きかったと思う。この頃から「社会貢献」や「社会正義」を意識するようになる。
気になる人へ、↓リンクを張っておく。ちなみに、おれは読んだことはない。
大切な仲間
世界一周中に、おれは1つ年上のナベさんと、マレーシア人のアイリスと3人でニュージーランドにいた。めんどくさがりで、いつも他人任せのおれを、よく助けてくれたのが、このナベさんと、アイリスだ。次の国へ向かうため別れることになった。2人は空港で出発時間になるまでずっと過ごしてくれた。搭乗時間になり、別れを告げ、セキュリティチェックを済ましたおれが向かった先はトイレだった。泣いた。そして必ず生きて帰ってこようと自分に誓った。
そして、もうひとり。それがアルゼンチン人のニコだ。ニコは短気な性格が災いして、あまり人から好かれないタイプだった。しかし、社会正義心の強い男だ。弱者に対する彼の優しさは特記すべきことだと思う。その頃の、おれは弱かった。英語は知っている。でも話せなかった。会話にならなかった。アジア人との会話はうまくいく。でも、西洋文化圏の人との会話はうまくいかなかった。そんな、おれに気を使ってくれたのがニコだった。ニコとは、後にアルゼンチンで再会を果たす。
カオス!これがインドか!
インドはカオスだ。人口も多く犯罪も絶えない。しかし、人々は、そんなことお構いなしに暮らしている。インドに着いた時、まず感じたことは「ここは完璧にアウェーだ。」ってことだ。インドはあきらかに他の国とは違う。それが好きな旅人もいれば、あまりのカオスさに耐えられない人もいる。おれはコルカタからムンバイへ約28時間かけて寝台電車で向かった。同室に居合わせた夫婦がいた。奥さんの方が足を手術するため、ムンバイの病院へ向かうとのことだ。病院へ行くために電車で28時間かけて行く、日本ではありえない話だ。人間は生まれながらにして不平等である。そのことを痛感した瞬間だ。
初めての人種差別
オマーンでは「日本に連れて行ってくれ」と出稼ぎに来ているバングラディッシュ人にせがまれた。ツラかった、なにもできないし、そんな力もないし、ただ笑って「なんかあったら連絡するよ」っていう他なかった。心に傷を負った気分だった。
さらに、もう一つ。オマーンはアジア人への風当たりが強い。つまり、人種差別だ。ゴキブリのように扱われているインド人、フィリピン人、バングラデシュ人を数多く見た。もちろん、おれも暴言を吐かれたり、嫌がらせを受けた。その一方で、ヨーロッパから観光で来ている白人もけっこういて、彼らへの扱いは非常に紳士的だった。肌の色ひとつで、こんなに違うのか、と絶望じみた気分だった。そもそも人種差別は白人たちが始めたもので、現在の白人でアジア人を人種差別する人は、まあいないと思うけど、涼しい顏をしていることに腹が立った。「おれたち、もう差別やめたから関係ない。あとは自分たちで解決してね。」っていう態度にしか見えなくて腹が立った。
平和活動家に出会う
イスラエルには「ムハンマドおじさん」と慕われているパレスチナ人が住んでいる。彼はホワイトハウスでレーガン元大統領やクリントン元大統領と会談をした事がある、世界で最も著名な平和活動家だ。彼はパスポートを持っていない。本人が望めば、行きたいところに行ける。おれは彼を平和活動家としてではなく、自由や平和を愛するヒッピーとして深い感銘を受ける。
真実を知ること
パレスチナ、ヨルダン川西岸ではパレスチナ人とイスラエル人のイザコザが絶えない。パレスチナと聞くと「悪いやつ」「テロリスト?」のようなイメージを当初、おれは持っていた。しかし、現実は全く違っていた。家の玄関を、板と釘で塞がれ窓からしか出入りできない家族、石や缶を投げてくる相手から身を守るために道に敷いた網、貯水タンクを狙撃され水不足に苦しむ人、すべてイスラエル人の仕業だった。メディアを通して入ってくる情報と真実には大きなズレがあることを知った。日本のメディアは相変わらず大本営発表だった。
天空の城メテオラ
ギリシャのメテオラには断崖絶壁の上に建てた修道院がある。それはまるで天空の城だった。観光名所めぐりに飽きていたおれに、もう一度感動を与えてくれた。それがメテオラだ。
ヨーロッパの日本
コソボのゲストハウスで3ヶ月間働く。ヨーロッパの中で唯一、イスラム教国であるコソボ人は保守的な人が多く、どことなく日本と似ていた。それが居心地の良さだった。仲間もたくさんできた。恋にも落ちた。
コソボ紛争の影響で、コソボ人とセルビア人が、激しく対立しているコソボ共和国ではセルビア人が多く住むミトロヴィッツァという町がある。川を一本挟んでコソボ人居住区とセルビア人居住区とに分かれている。そこに行ってみた。そこは、まるでイスラエルとパレスチナだった。戦争は終わったあとも民族対立がずっと続く、そのことで平和活動に興味を持つ。
メキシコ
日本へ帰国する直前、おれはカリブ海に浮かぶイスラ・ムヘーレスという島へ行った。そこはまるで竜宮城、パラダイスだった。波は穏やかで、このまま地平線の向こう側まで行けてしまいそうな遠浅のビーチ。もちろんココナッツの木はあたり一面に広がっていた。おれのお気に入りはココナッツの木にかかっているハンモックで昼寝をすることだった。そして、人々はいつも優しく旅人を暖かく迎え入れてくれる。誰とでも、話し始めて5分もしないうちに意気投合する。そんな不思議なオーラも持つ島だ。また必ず戻ってこようと思った。
帰国。衝撃。
成田空港へ着き、そこから帰路につく。途中の池袋駅で見た光景は今でも忘れられない。誰もがケータイに目をやり、誰一人として目の前の現実に注意を払っていなかったのだ。恐ろしくなった。この先、日本は、どうなってしまうのか恐ろしかった。 いったい、日本人は何を考えて生きているんだろうか。
世界は想像以上に貧しかった。賛否両論分かれるだろうが、世界一周中おれは恵まれない子供や、路上生活者にお金を渡していた。その総額は約30万円だ。大した理由ではないが、旅行するだけのお金を持っていながら、見て見ぬ振りをするのが精神的に耐えられなかったのだ。
そんなおれが衝撃を受けたのは、ある日本人バックパッカーだ。ある日、おれたちは、苦難の生活を強いられている家族に出会ったのだが彼女は「お金って言われるから逃げよう」と言って逃げ出してしまった。それ以来、おれは旅人を名乗ることを辞めた。
そして、おれはイスラ・ムへーレスに戻る。
メキシコで遊びまくる
イスラ・ムへーレスへ戻ったおれは、いつしか、レジェンドと呼ばれていた。
「あなたに会いに来ました」とメキシコ本土から会いに来た人もいた。いや、しかし、おれにもレジェンドがいる。それがリチャードだ。
リチャード
元アメリカ海軍第7艦隊所属のリチャードは、伝説的なヒッピーだ。歳は50代かと思う。彼はおれの人生の中でもとりわけ大きな存在だ。彼から受けた影響はこの上なく大きい。自由と平和を愛し、歌を歌い、踊り、彼の周りには常に人だかりができていた。常識に囚われない彼の行動は全ての人に驚きと感動を持って受け入れられた。おれとリチャードは1週間くらいしか時間を過ごさなかったが、おれたちはすぐに打ち解けた。彼は、政治、宗教、なんでも知っている。どんな質問にも答えてくれた。人生において師匠と呼べる人間は、リチャードをおいて他にいない。おれは、ただリチャードのようになりたかっただけで、レジェンドではない。リチャードこそが正真正銘のレジェンドだ。
彼は今、グアテマラで農家を経営している。いつか時間ができたら会いに行こうと思う。
家族のような仲間たち
イスラ・ムへーレスの最大の魅力が、島全体に溢れる、人と人とを結びつける不思議なオーラだ。言うまでもなく、出会う人、全てとすぐに打ち解けてしまう、そんな不思議な島だ。
メキシコはスペイン語だ。しかし、おれは全く話せない。それでも、多くの人と深い人間関係を築くことができた。コミュニケーションでは言語はさほど重要ではないということを学んだ。大切なのは、気持ちだ。
この頃から、おれはコミュニケーションの世界に興味を持つ。すなわち英会話だ。
メキシコから帰国後、おれはオーストラリアへ向かう。
オーストラリアで学ぶ
英会話を習得するため、2015年からオーストラリア。ギリホリ31歳。
バイロンベイ
英会話習得を目指していたおれは、極力日本人を避け、多くの時間を外国人と過ごす。バイロンベイもイスラ・ムヘーレスのようなオーラを持つ町で、すれ違う人と会話が始まるような場所だった。わずか半年間で1000人以上の外国人と英会話を経験したものの、コミュニケーションの壁の高さを痛感する。世界の壁は高かった。
自分の英会話力が上がっていくうちに自然とモテるようになった。こっちから何か仕掛けたわけでもないのに、半年の間に言い寄って来た女はかるく70人を超える。間違いなく世界で一番モテる日本男児だった。しかし、素直でない日本人特有の性格のおかげで、そのチャンスのほとんどを活かすことができなかった。自分が満足できるような英会話ができない。そんな自分を変えたくてファームの仕事をしに町を離れる。
無二の親友アレックス(イタリア)
ゲインダー
ここで大きかったのはスーパーバイザーを経験できたこと。外国で管理職として働くことの難しさ、外国人の部下への接し方、いろいろ学ぶことができた。外国人は自立した強い人間が多い。こっちも強くないと扱えない。外国人との英会話がうまくいかない日本人が海外でスーパーバイザーになれる確率は限りなくゼロに近い。おれは少し自惚れてしまった。
最高の仲間たち。
休みの日はいつもこうやってビーチでまったり過ごしていた。最高の日々だった。
まだまだ課題は残るが、概ね英会話を習得できたおれは、オーストラリアでも「レジェンド」や「キング」と呼ばれた。人から崇められると自惚れてしまう。気をつけないといけない。おれはただ、イスラ・ムヘーレスで出会ったリチャードのような偉大な人間に憧れているだけだ。レジェンドでも何でもない。しかし、ビザが切れたこともあり、日本へ帰国する。
彼女に出会う
日本へ観光旅行で来ていたアルゼンチン人のジェニーと出会う。おれたちの出会いはカウチサーフィンだった。初めて彼女を見た瞬間、なにか心に響くような感覚があった。彼女は今まで出会って来た女の中でも、とりわけ良い女だ。おれたちが過ごした時間は、たったの3日間だった。彼女は帰国してしまう。
深く愛し合う
その後も連絡を取り続けていたおれは彼女に会いにアルゼンチンへ行く。お陰様で今では深く愛し合っている。遠距離恋愛だが、おれたちは前向きに将来を捉えている。
日本男児が持つ西洋文化圏の彼女のほとんどはアニメ好きのオタクと呼ばれている。心優しい人が多いが、おとなしすぎて従順過ぎるところが、おれのパートナーとしては、基準を満たさない。その点、ジェニーは、バリバリのラテン系だ。自己主張も強いし、地に足がついている、自立した強い女だ。さらに頭も良い。おれが心の底から愛せる女は、最高の女だけだ。広告宣伝の専門家として彼女は、日本で言うところのキャリアウーマンだ。頭の良い女は好きだ。こっちの難しい話にも理解してくれる。
ちなみに、おれはIQが129ある。ホリエモンの135に比べると少し低いが、自分では満足している。
ただし、短期記憶力は著しく低い。ジェニーによく言われるのは「Short Memory (忘れん坊さん)」だ。
そして、現在
失敗や苦労は人並み以上に経験してきたはずだ。起業家を目指し、しかしお金に翻弄される人生に嫌気がさしたおれは旅に出た。その中で見つけたものが英会話だった。自分にできて、他人にできない事、それが英会話だった。自信のあるスキルがあるなら、それは社会へ貢献すべきだと思う。英会話スクールを作ろうと思っている。そこでは世界で通用する日本人を育成したい。そして、そこで育った日本人が国際平和を実現していく。
みんなが安心して自分らしく生きていける社会を作ること、それがおれの夢だ。
好きな食べ物
駄菓子
ラーメン
チョリソー
好きな音楽
ディープハウス
サイケ・トランス
尊敬するレジェンド
リチャード
丸尾孝俊
エルヴィン・ロンメル
おしまい。